ドーンパープル・エールブルー


 まだ世界は暗い。
 夜明けを目前にしても星空は変わらずに輝いていた。空に感情はない。いや、あるかもしれないが、それは私たちには計り知れないはずだ。
 インブリウムはそう考えながら視線を下げる。地平線が揺れている。風にざわめく一面の草だ。
 草原は濃青色に染まり無限に続いているように見えた。実際無限か、有限であったとしてもそこで果てだろう、とインブリウムは予想する。視界の中に一つの変化もなかった。見渡す限りの草であり、山もなく、建物もなく、灯りもない。星が草の切先にかかりそうなほどの位置にさえ見えている。
 その中でたった一つ彼女の視界を遮るものが隣にあった。
 青年は袖の長い服を着て、頭には不思議な形の冠を被っている。その姿は彼女が普段見ている姿とは違った。そうして彼女自身も、普段とは違う姿をしていた。ドレスの膨らんだ裾は、草原に佇むには不釣合いに見える。
 お互いに盛装をして、東を向いていた。
「何をしていたのだったか」
 はた、とインブリウムは頭に浮かんだ疑問をそのままに口にする。青年、星読は振り返り、それから東を示した。
 正面から見ると、冠は太陽に似ている。
「夜明けを待っているんですよ」
 至極当然の様子で言われ、インブリウムも思い出す。ああそうだ、私たちは夜明けを待っていたのではないか。ずいぶん前から約束をして、示し合わせてここに来たのだ。
 インブリウムの思考が進むのに合わせて、時計が動き出したかのように、東の空がほんの少し白んだ。
「太陽が来るな」
「来ますね。では、もうすぐでしょう」
 その言葉通り、夜明けは早足でやってきた。空は白み、星は消え、濃紺は追われ、しかし太陽はいまだ現れず、それでも星は消え風が吹き草原は揺れ、そして、
 ふ、と、空は紫に染まり、
 さらに白んでとうとう太陽が顔を出し全てを黄金色に照らしはじめる。
「見ましたか」
「ああ、もちろん」
「あれをドーン・パープルというんです。夕刻にも見れます」
 どちらにせよほんの一瞬ですが、と星読は付け加えた。
「そんなに似ていたかな」
「はい、とても」
「ただ空というならばお前の方がよほど似ているよ、星読。さて、私の番だな。とはいえ既に始まっているか」
 インブリウムは声を低くする。
「聴こえるか?」
 星読も耳を澄ました。血流。鼓動。呼吸。もっと外に。衣擦れ。草のざわめき。風。
 ――甲高い鳥の声?
「宇宙の鳥だ。太陽からやってきて、この地球で暁にだけ鳴く。そして誰にも姿は見えない」
「誰にも?」
「電磁波なのさ」
 インブリウムがニヤリと笑った。そして次の瞬間にハッと目を見開く。だがすぐに説明を続けた。
「太陽から来た粒子が磁場に捕らわれて飛び込んでくる。その時に磁気圏の粒子を振動させてこんな音の形になるのだ。ドーン・コーラスと呼ばれている」
「それで太陽から来た鳥、だと」
「ああ」
「そう思うと、哀しい声に聴こえますね」
 例え話だぞ、とインブリウムは念を押したが、星読はただうなずいただけだった。
 太陽が昇りきる。
 星読が哀しい、と評した宇宙の鳥の声も止んだ。
「僕には姿も見えそうな気がします。地球に捕らえられた鳥の」
 暁の鳥なら、色も暁の色だろう。星読には薄紫の鳥が見える。太陽から飛んできて、鳴きながら地球に落ちてくる鳥。そうして二度と戻れないのだ。
 隣に立つ相手が、月から降りてきた鳥であることも思い返していた。
 見れば、太陽を見つめながら、のん気に首など掻いている。そして唐突に、眉を歪めながらこちらを見上げてきた。
「心配することはないぞ、星読。それらの粒子は一所に溜まるのでな、例えに従ってもお仲間一杯だ。考えようによっては雌鳥目当てに飛び込んできた雄鳥とかその程度のものだぞ。――とするとあの声は求愛行動か。いや、逆にこちら側の鳥が仲間を歓迎する声か。ひょっとして威嚇か?」
 いかにもくだらないといった顔で論ぜられる言葉を聞きながら、星読は改めて空を見る。
「ということは、この空一面鳥だらけですね」
「気持ち悪いことを言うな」
 すみません、と素直に謝罪する青年の顔に、黄金色の輝きはすでにない。暁の時間は完全に過ぎたのだ。
「もう朝か」
「そうですね。――僕たちも目覚める時間ですよ」
「ああ、気付いていたか」
 彼女もうなずいた。今、黄金色の輝きは二人の瞳の色にある。平凡な日光に照らされることで、そのことだけは逆にはっきりした。
「いつから?」
「僕は、わりと最初からです。こういうことは、多少起こるので」
「そうか、私は途中からだよ。ドーン・コーラスのくだりだ。電磁波はな、私たちの耳には音として聞こえないのさ」
 だがあれも嘘じゃない、とインブリウムは付け足す。
「夢であることは嘘であることと同義ではない」
「わかってます」
 明るく照らされ、有限である草原は少し狭まったようである。あるいは、夢の終わりが近いせいかもしれない。
「どうします? もう少しで夢も終わるみたいですが」
「どうするって、何をだ」
「何か……そうですね、踊ってみませんか」
 あからさまに苦い顔をする少女の前に、恐れもなく青年の手は差し出される。
「夢ですから、上手くいくかもしれませんよ」
「それはお前、希望的過ぎるだろうに」
 そう言いながら、少女は青年の手を、取った。

2007/3/1


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