よなき


 男と娘とが連れ立って、この界隈に現れたのもずいぶん前になる。
 同種のよしみとまずもって二人を店に招き入れたのは、この島に住むゲッコウヤグラの少女だった。その姉だという女に率先して歓迎され、化粧と酒の匂いに囲まれて二月過ごした。いつでもおいでという言葉にあぐらをかいて、不定期に訪れるたびに身内の扱いを受けている。使えるものはなんでも使えばいいと男は思っていた。
 口の字の建物に行き止まりはなく、部屋は隠れるようにいくつもあり、いもうとである娘の元へは常に何かを求めているような女の一人か二人が構いに現れるので――彼女達にとっては娘の主体性のない返事が逆に嬉しいようだった――あにである男はある面で安心しある面で警戒もした。
 危険のない場所で休めるのは目の悪い娘にとってよいことであったし、普段は楽しめない女っ気のある夜がここでは容易に手に入る。その一方で女達が娘にも自分にも構いすぎないように、そうして不信感から影を探られないように気を遣う必要があった。
 だから男は昼の間は常に娘と一緒にいた。外に出るときは連れて歩いて一人で残さなかった。親切な差し入れは隠れて始末した。特に食べ物は。
 ただしだいしだいに断りもしないのに、その差し入れから食べ物の姿が消えていくことに男は気付いていたろうか。夜の街に生きる女達の、薄布に包むような口に出ない気遣いに、男は男ゆえに、あるいはその意識が常に娘に向けられていたがゆえに、気付かなかったのかもしれない。
 もしそうでなければ、男は気付かぬふりをしていただろうか?
 それはない。娘のために、男は全てに対して怯えに近い警戒心を持っていた。
 だからそれはない。
 ただもしひとつ仮定するとして、男がその危険を繰り返し冒し続けたことに、理由があるとするならば、それは。


 人も年が三十を過ぎたころになると、ニ年三年では見た目の変化が乏しくなってくる。それは男にとってはずいぶんありがたいことだった。自分の姿が『ほとんど』変わらなければ、自分と共にいる娘の姿が『まったく』変わらないことの違和感が少しは緩和されるだろうと思えたからである。
 だがそれももう潮時である。日暮れどきに通りを歩く二人を、その目に見止めて駆け寄ってきた少女は、最初に出会ったときに比べてずいぶん背が伸びていた。元が割合小柄だった分、その変化が顕著なのだ。娘を追い越している。
 娘はこれ以上伸びることはない。ただまだ身長は言い訳がきく。重要なのは雰囲気だ。
「一ツ橋さん、ずいぶん女っぽくなりましたね」
「そうかな? そうでもないよ」
 避けたい話題がためにあえてみずから振ることもある。少女は自分で言ったとおりにそれほど女らしくなっていたわけではなかった。その話は、だから、それだけで終わった。
 まるでそれが毎日行っていることであるかのように、少女は男と娘を先導して店に向かう。その途中で、飾り物を売る店に、男が目を向けた。
「こんな店ありましたっけ」
「最近出来たんだ」
「ああなるほど」
 髪飾りが並んでいる。男は横の娘に尋ねた。
「ヒメ、何か気に入ります?」
「ん……別に」
 娘の目は無感動に並んだかんざしを映している。朱塗りのもの、金のもの、べっ甲のものと様々に、ビンにまとめて挿してあったり箱入りで重ねられていたりと賑やかである。
 男の手が、箱を一つ拾った。
「これを頂けますか」
 銀の櫛だった。上の方にはやはり銀製の花と粒のような珊瑚が飾られている。
 そうだあのひとはあんまり髪を結わないから、と   は思った。
 坊様がこんな通りで髪飾りをお買いですかという店の主人の茶化しを軽く切り抜け、男は受け取りなおした箱を懐にしまう。そしてまた歩き出す。
 店についたのは夜が始まる間際だった。


 女がここ三年で大部屋を抜けて座敷を持つようになったのは、じっさい男のおかげだということを男は知らない。
 もとより金を持っていてその上すぐ使うような若いぼんぼんにもてる女だったのが、男と出会ってから危ない癖がなくなって長続きするようになったのだ。
 その日女は暇だった。男が来たから暇にした。
 みんなで男と娘を迎えて、休ませて、それから男が娘を休ませる、その後の時間を待っている。
 女の部屋から見える月は綺麗だった。だから女の部屋に入る月光も綺麗だった。
 男が部屋をのぞいたとき、女は逆光の中で背を向けていた。窓にもたれて外を眺めている。女が年にも見た目にもそぐわない性格を隠し持っていることを、『客』ならば男だけが知っている。
「センチメンタリズムってやつですか」
 女がびくりと動揺したのは後姿だけでもわかった。ほらだめだ、あなたは徹底してないんだ。男は声を低くして笑う。
 一呼吸置いて振り返った女は、いつものように悲嘆にくれた、不治の病に蝕まれているかのような顔をしていた。白い肌の上に長い黒髪がはらはらと線を引くように落ちている。女の内実を知っている男にはそれがおかしい。
「あーさん、驚かさないでくださいな」
 吐息に混ぜるようにしてものを言う。横に鋭く突き出た耳をしおらしく下げて、今にも倒れそうな傾いだ姿勢で薄く笑った。
「びっくりするとねえ、すぐ胸が苦しくなるんですよ」
「すぐ顔が赤くなるの間違いじゃないんですか」
 男がそう言った途端、女の口元が歪んだ。一瞬目を見開いて、それからすぐ横にそむける。
「そんなことありませんよ」
 嘘だ。顔の半分を覆うような髪形のせいで男からはよく見えないが、女の顔はすでに赤らんでいる。部屋に入った男が今度は隠す気のない含み笑いをするので、女は唇を尖らせながらそばの膳を示した。その声もすでに拗ねた声である。
「お酒少しばかし用意しておいたんです。旅先の話でもしてくださいな。また長いことお顔をお留守になさってたからには、ずいぶん積もる話もありましょう」
「ええまあね。そうですねずいぶん来ませんでしたね、忘れたかと思ってましたよ」
「忘れる? 忘れるなんて、そんなこと」
 そちらこそ私のことなんてお忘れになるんじゃないですか、と言いながら盃を取った女の手を、男が掴んだ。白い手首に痣がある。悪い癖の名残だ。一生消えないだろうと女はいつか笑って言った。
「今日はね少し大事な話があるんですよ」
「なんですって」
「短い話ですがどうにも無粋でしてね、ですから」
 さりげなく痣を隠すように手首を掴みなおして、男は女の体を引き寄せる。濃い紫の襦袢から白い首筋が伸びている。伏し目がちにかよわさを演じる目が、少し開いて男を見上げた。
「先に粋なことをしちまいましょう」


 ――あーさん、あーさん痛い。
 ――え?
 ――何か当たってる……。
 ――あ、忘れてた。お土産ですよ。すぐそこで買ったんですがね。
 ――あら嬉しい。何かしら。
 ――あとで開けてください。あとでね。


「――なんです、お話って」
 女は疲れからか満足感からか眠たそうな顔で、それでも半身を起こしてそう尋ねた。
 男は女が膳を引き寄せてくるのを待って、姿勢を直したところですかさずその膝に頭を乗せる。可愛らしく懐いた目を向ける女の頬を撫でて、とぼけてみせた。
「お話ねえ」
「さっき話があるって言ったでしょう」
「言いましたっけねえ、そんなこと」
「そんなこと言うなら私聞きませんよ」
「おっと。しかし実際聞いてほしくないんですよ。とても残念なことです、あなたにお別れを言わなけりゃならんのはね」
 男の言葉を女が飲み込むまで、少しばかり間が空いた。男がのんきに顎をさするのを、女はぼんやりとした顔で見ている。
「もう、来ないんですか」
「ええ来ません」
「……な」
「話すほどの理由はないですよ。いや、話すつもりがないんです。あなたにもね」
 女の問いなど聞くまでもなく男は答えを吐き捨てていく。
 顔はあまり見なかった。見ると色々と面倒だったからだ。何が面倒なのかと言うと、男はこの女の泣くのが――何も知らない小娘のような泣き方をするのが――好きだけれどもまた嫌いでもあったからだ。なぜ嫌いなのか、それ以上は男自身も詮索をしない。詮索をしてしまうと、やっぱりそれこそ面倒なあれこれが浮かび上がってくることだけが、男にもはっきりわかっている。
 だが女はまだ泣いていなかった。伏し目だったが、いつもの作った哀しみ顔とは違う。とまどっているのだ。
「私のこと、嫌い?」
「いいえ。さっきも言ったでしょう、あなたと別れるのはとても残念だと」
 今まで女の聞いたことがある別れの口上は、お前のせいで酷い目にあったと罵るか、酔った言葉で彩られた詩歌のようなたわ言まがいかどちらかだった。その上それらを女も右から左に聞き流していたのが、今度のこれは重く受け止めなければならないはずで、だというのに鞠を投げるかけ声か何かのような男の口ぶりにまったく混乱していたのである。
 女はもとより雰囲気のよいものが好きだった。本当に愛した者との別れというのは、もっと悲劇的で物悲しく、場合によっては火のような激しさがあるはずだと思い描きつづけていた。しかし今この状況にそんなものは全くない。
 別れという事実よりもそんなものばかり先に立って、女は泣くこともなくただ首を傾げてみせた。
 嗚咽が聞こえないことに疑問を感じた男が見たのはちょうどその顔である。
「先に言いますがね。私は嘘を言ってるわけじゃありませんよ」
「ええ、わかってます」
「もう来ません。いいですね」
「はい」
「いいんですか」
「いいも何も、あーさんが決めたら私どうしようもないもの」
「……泣くかと」
「え?」
「泣くかと思ってましたよ」
「なぜ?」
「いや、いいです」
 ――そんなものか。そんなものだったのか。ああそれもそうか。
 男は体を起こした。ずいぶんといろんなものが――主に自分が滑稽に思えて、それから少し腹が立った。具体的にどれというわけではない、八つ当たりに近い苛立ちである。
 それをすぐにその方が都合がいいという考えに塗り替えて、振り返るときにはもう笑みを顔に浮かべていた。
「そう、だから今日は土産を持ってきたんでした。開けてください」
 無造作に放られていた箱を拾い上げて、その中身を見たとき、女の顔にようやく表情の変化が起きた。顔の作りに似合わない、はにかんだ笑顔で女は礼を言った。
「すごぉく可愛いですねえ。似合うかしら」
「あなたに似合うかどうかよりも、あなたが喜ぶかどうかを考えましてね」
 それにあなたにはじゅうぶん似合いますよ、と男は本心で言った。本心は本心だが今ならもうどんな台詞でも言える気になっていた。
 ――どうせこれっきりだ、もう終いだ。そうだ明日には出ちまおう、この人が泣くなら七日ばかりかいてもいいなんて思ってなんざ、いなかったのだから。そうだとも。
 女はもちろん、男が何を思っているのかを知らない。特に自分に関わることについてだけ勘が働かないということは誰にでもあるのだ。
「つけてさしあげましょう」
 男はにこやかに笑いながら、女の手から櫛をとり、髪に器用に挿し込んだ。細い櫛の歯が皮膚をかいていく感覚に、女の耳が震える。その様子に気付いてか、櫛を挿した手がそのまま頭を撫でた。繰り返し繰り返し、優しく。すぐに来る別れがために。
「お似合いですよ」
「まあ、嬉しい」
 そう答えを返しながらも、女の意識は頭を撫でる手の方に向かっていた。そういえば何度もこんな風にしてもらったわと、男に身を寄せながら思い返す。
 同じ店の仲間にしか見せなかった部分を男が知って、甘えるようになって、『恋』自体はそれより先ではあったけれども、そのことがなければここまで待つようなこともなかったはずだった。
 ――他のひとは私を撫でたりはしないわ。撫でられたがる女じゃないと思ってるのね。ううん、私がそう思わせているもの、当然だわ。
 唯一男の手だけが女を撫でるのだ。
 ――このひとは優しいからきっと他のひとのことも撫でるわよね。あの子のことも、どこか遠くの別の誰かも。でも私にはあなた一人だわ。あーさんだけだわ。
 女はそっと男を見上げた。まだ手は頭から離れていない。男は笑っている。
 優しい笑い方だと女が思ったのは、間違っているわけではない。
「あーさん」
「なんですか」
「私、あーさんの手、好きですよ」
「ありがとうございます」
「……もう少し撫でてくれます?」
「ええ。これで撫でおさめですしねえ」
 急に、だ。
 急に女は全てを把握した。
「そうだ」
 もう誰も女の頭を撫でない。たとえいても、他の誰かに撫でて欲しいと思うことはない。
「あーさん、もう会えないんですね」
 何を今更と女の顔を覗き込んで、男はぎょっとした。今の今まで潤みさえしなかった女の目からぼろぼろと涙があふれて伝っている。口を閉じてこらえていたのが、女も男と目が合った瞬間に顔をくしゃりと歪ませた。
 もう聞きなれた子供のような泣き声を聞きながら、男はせっせと頭を撫でてやる。
「ああよしよし。まったくどうして今なんですか、泣くならさっきでしょうに」
「だってあーさんが、あーさんが、そんな、ばあっていうからわあって私もなったんだもの私、だから」
「わかりましたわかりました、泣きながら話さなくていいです」
 男は女を抱きかかえて今度は背中をさすってやった。肩の辺りが涙だか鼻水だかなんだかで濡れていくのもいっこう気にならなかった。ただ少し笑っていた。ああなんて。
 女の泣き声が小さなしゃくり声に変わるまでしばらくかかった。
「あーさん」
「はい」
「本当にもう会えないの」
「はい」
「私から会いに行くこともできないかしら」
「……だめです。それにきっと危ない」
「あら、大丈夫よ。あーさん」
「はい」
「今お別れ言ったからって、律儀に守んなくったっていいんですからね」
 男は少し間をおいてから、答えた。


 女が泣きつかれて眠った後に、男は娘を残した部屋に戻ってきた。出て行く前とまったく変わらず、娘は布団に肩までもぐりこんで横になっていた。並べて男の布団が用意されている。男はそれを無視して、娘のすぐ横に――ただし布団には入らず――転がった。
 小さいあねの背に腕を回して顔を押し付ける。
「渡せたの」
 おとうとが身じろぐのがわかったが、あねはそのまま背を向けていた。かすかにうなずいたような気配がある。
「そう、よかったね」
 またうなずく。
「いいんだよ」
 あねがいう。抑揚のない声に、だが、含まれているものがある。
「いいのに」
 今度は誰もうなずかなかった。
 このまま夜が明けなければいいのにね、と昨日と同じことを、考えていた。

2006/12/12


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