蟷螂夫人


 娘はわらっていた。
「これからどうぞよろしくお願いいたします」

 つつましく隠した口元が歪んでいるのがわかる。
 長い裾に隠した肢の、鈎針が床をかく音がかすかに聞こえる。

「よい家庭を作りましょう」

 澄んだ高い声を転がして娘は言う。奇妙な抑揚は弦楽器に似ている。耳の奥を撫でて逃げずに頭を回るのだ。
 そして喋るたびに顎がかち合う音が脳を噛む。ひどく気に障る。

「私、貴方様と添えて幸せですの」

 これが私の妻なのか。
 なるほど不足がない、立派な毒虫だ。
 雌というだけで一歩優位に立つ、この娘とどう戦おうか。

「私も嬉しいですよ。あなたのような素晴らしいレディを我が家に迎えることができてね」

 娘はまた笑った。
 閉じていた目を薄く開いて笑った。
 瞳孔もどきが私を見ていた。

 蟷螂は無用の雄を雌が喰らうのだと聞く。
 喰われる前には喰わねばならぬ。

2006/10/12
ウォーターグリフォン




恋の花


 その日は久しぶりのお天気で、けっして快晴というわけではありませんでしたが、どこの家も久しぶりに洗濯物を干していました。わたくしも姐さん方の肌着やら汚れ物やらを一通り洗って干したあとで、本当なら天気の良い日は布団も干すのですが、雨あがりの日はかえって湿気が地面より立ち上ってくるので、具合が悪いので見送ったのです。
 ですからわたくしには思いがけず時間の余裕のあるときでした。そこで三階にのぼって日光にあたっていましたら、彼女がやってきたのです。
 いつもなら明るい声で呼びかけてくる彼女ですが、このときは黙ってわたくしからすこしはなれたところによりかかりました。
 最近の彼女はどうもおんならしさというものが目立ってきたように思います。わたくしより三つは年下ですが、彼女は何事にも積極的ですから、わたくしが全く知らぬことも体験してきたことでしょう。
 ただ、大人びては見えますが、彼女もやはり子供なのだと――そしてわたくしもまだ子供なのだと――思うのです。


「晴れたね」
 と浜松が言ったのを、一ツ橋はまるで聞いていない風であった。うなずきはしたが、その態度は隣人に優しくはなかった。
 少ないように見えて、空の高いところには薄い膜のような雲がかかっている。そのせいで空全体、島全体が、灰がかってぼやけていた。
 風はない。が、冷えた。
(梅雨のようや)と浜松は考えたが、おそらくこれを言ったところで今の一ツ橋にはわずらわしいだけだろうと踏んで黙っていた。
 しばしの沈黙が続き、ときたま船の汽笛が割ってはいるほかは音もない。路上の喧騒は三階に上がるまえに四散してしまう。
 ひいろろ、と鳶が一羽、空を切り裂くような声を出して飛んでいった。
 それを合図にしたかのように、一ツ橋が口を開いた。
「ねえ浜松には」
 普段より一段低く、重い、吐息のような声である。(誰かに似ている、)と浜松は思った。
「浜松には好きな人いたっけか」
 質問の意図を汲むよりも早く、答えが出る。ただしそれは少女の質問に対するものではない。自らの問いに答えるものだ。
 彼女は彼女と血の繋がったあのおんなに似ていた。


(――どないしたん?)
(質問に、答えなよ)
 別に、そんなん。なあ。
(いたんだっけ)
(お……)
 なあ、ええやん。なんなんよ。
(いないの?)
(…………)
 うちは。
(あたしにはね、いるよ)
(…………)
(いるんだよ)


 れんあいと、いうものの、素晴らしさを知ったのは、ひとつに本です。そしてもう一つに、子供の時分に見た、近所の姉さんの嫁入りです。
 その頃の結婚話ですから、裏もないわけではなかったのでしょうが、幸いなことに、姉さんとお相手の若旦那様は、お互いに思いあいなさってました。
 結婚の日。姉さんは、白無垢を着て、輿に乗っていました。街道を若旦那様の家まで、ぐるり町内を一周するように歩く、その姿を、わたくしは今でもはっきり思い出せます。
 姉さんはもとより大変な器量よしでしたから、白無垢も、おひいさまのように輿に乗る姿も、実にまばゆく、あかるいものでした。それに何よりも、姉さんは幸せそうに、本当に幸せそうに笑っていたのです。
 思い思われて、幸せに嫁入りをすること――それ以上の幸せはあるまいと、そのときのわたくしは本当にそう思いました。
 そうしていつか自分もそのような幸せに出会えたらと、いいえ、そのときは出会えるだろうとまだ信じていました。
 今と変わらないそばかす顔と、赤毛で、お前は何を望むんだと、叱ってやりたい気分です。わたくしもまだ幼かったのです。




 ――ねえ、本当に、何を望むのだと。ねえ。




 期待するというのは、怖い。
 求めるというのは、怖い。
 果たして人は、心というこの重いものを抱えながら、一人で立つことができるだろうか。
 誰かから渡された心というものは、あるいは支えになるかもしれないが、あるいは重荷にしかならないだろう。
 だから人は拒絶する。するほかない。
 それがわかっているから、人に心を託すのは、本当に怖い。
 少女は傍らのもう一人の少女に向けて言った。
「もっと優しくなろうと思うよ」

 自分というものを考えずにすむようになれば、何も苦しいことはないのだろう。
 そうしていつか、その心も、風化して、消える。
 それが悲しいことであるのを、わからないほど少女はおろかではない。
 だが、それでも構わないと思ってしまうほどには、おろかなのだ。

「恋は、いいね。暖かいね。そしてとても怖いね」

 結局返答はしない。
 傍らの少女はすでに自らの行為を反省しているが、それはもう誰の眼にも入らない。

 一瞬眼の奥に浮かんだ横顔を、少女は優しく消し去った。

2006/7/?
浜松




10月のホロウ


ああ白布に隠れし君が姿よ
しらぬのに 知らぬのにと首を振りつつ
まだ見える 風の作る影 あの窓の端
カーテンを揺らす 思い出は遠くなりぬ

「トリックオアトリートですか?」
 少女は笑いながら透ける両手を籠に伸ばした。軽い軽いキャンディをそっと持ち上げる。慎重にイメージする、手の上に乗せた感覚、持ち上げた重さ、高さ、転がり方。
 気を抜けば落ちる、落ちたら哀しい。何故かといえばそれは彼女がもうすでに実体なぞ時間の彼方に捨ててしまったからだ。そのことの証明に、キャンディが落ちる音はとても有用なのだ。
 だから彼女は気をつけてキャンディを持ち上げる。そっとだ。
 女が笑うから、少女も笑った。笑ってから、何を笑っているのですかと尋ねた。
 女はキャンディを少女の手から持ち上げた。手に触れないように、慎重に、上から。
「あたしがやるよ、そんなのは、あたしがやる」
「あら」
「おかしいよ、それは……」
「ああ、あなたのほうが」
「そう、年上だから。長く生きてるから。年長者だ」
「でも私のほうがずっと長く居る」
 ずっと長く居ますね、と少女は少し目を伏せた。
 女は明るく笑う。
「だからって、あんたがもう子供じゃないわけじゃないのさ。そうだろう」
 あたしのほうが年上だろう、女は言う。たった二歳だけども。
「そうしておばさんになってばあさんになるよ」
「私はいつまでも16才」
「うらやましいね」
「まさか」
「ああ冗談だよ」
 その瞬間に空気が重々しく横たわり、二人を繋ぐ糸は改めて強く張られ、数秒の沈黙が訪れる。
 追い払うように、女は言った。
「仮装をしなよ」
「したいです」
 少女は辺りを見まわした。その視界に入る、様々な実体を、そうだ彼女は今はもう目と耳だけで世界を見ている。
 部屋の隅に不釣合いな白いカーテンがゆらいでいる。窓を閉められた部屋で何故カーテンがゆらぐのかというとすきま風がどこからか入ってくるからだろう。
 部屋はそういえば酷く寒いのかもしれない。
 女はいつも薄着で元気そうにしているから少女は気が付かなかった。季節は移るのだ、ああ今はやはり寒いのだ。
 寒いという感覚は今でもよく覚えている。
 少女は笑ってカーテンを手で示し、そっとそれを体で持ち上げる感覚を想像しつづける。つまみあげる感覚。引く力加減。足にからまる裾。そういったものを一つずつだ。
 白いカーテンに隠れると世界は白く遮断される。布の向こうから光が透けて少女の視界を少しだけ明るくする。
 また別の感覚を思い出しながら、彼女は顔だけをカーテンから出して見せた。
「おばけの仮装ですよ」
「名前は?」
「フィリップ」
「男なのか」
「元軍人なのです。さあ、トリックオアトリート?」
「ああもちろんお菓子をあげるよフィル」
 女は指を鳴らして呪文を隠す。籠に入っていた菓子が床に散らばって花のようになる。
「先祖の霊が帰ってくるのさ、ハロウィンに」
「魔除けを置いておくのですね」
「そう。でも何故追い返さなきゃならないんだろう」
「死者は生者に害をなします」
 それは悪意に関係なく、結果としての話であると繋げた。
「じゃあ害かどうかはあたしが決めていいんだね」
「わかりません。わかりません、そんなことは」
「あたしにもよくわからないけどね。まあとりあえず、おかえりだよ、あんたたちにとって、この日は」
 女は拾い上げた菓子を少女の代わりに口に入れた。
「おかえり」

2007/11/1
エコー フィリア


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