ハートイズ 時候の挨拶みたいなお菓子配りの、最後に回したのはお店をやってるから。 先日髪を切ってもらったお礼も兼ねて、私は緑さんに会いに行った。 美容室の中は整髪料の匂いが鼻について、少しひんやりした独特の空気だ。片手に提げた紙袋からの甘い匂いもかききえる。ぶ厚いけれども肩の出たニットは、やっぱり少し寒かった。思わず首を押さえる。 特別連絡もしなかったから、この後忙しいようだったら悪いな、とか考えながら辺りを見回すと、小さな影が二つ見えた。 「白雪ちゃん、紅梅くん」 声をかけると、小さな耳がすばやくはねて、ふりかえる。 「あっ、こんばんは」 「なんだ、浜もかよ」 「紅梅くん、浜『ねえちゃん』やろ。……も?」 何が『も』だろう、という疑問は、一瞬で解けた。二人の手に、おそらく中身はすべてチョコレート菓子だろう包みが、なかなかの数抱えられている。 さすがに人気というか、なんだか漫画みたいでおかしかった。 「それ全部、そうなん?」 「そうなんです。朝からきたお客さんが、あとお客さんじゃない人も」 「先生はこういうの大事にするけど、どうせ全部は食いきれないからわけてるんだ」 二人がそれぞれ抱えているのは、『ぜったい義理』と『たぶん義理』らしい。 残りの『本命かな?』は本人が食べる分。聞いて思わず笑ってしまった。 何がおかしいというわけでもないのだけれど。 「どうやって判別してるん?」 「そりゃお客さんを見てに決まってるだろ。な」 「うん。先生ね、全部義理じゃない? とか言うんですよ」 「それはなさそうやけどなぁ」 「だよな」 当の本人は買い物に行ってるそうで、すぐ戻ってくると言われたので、少し待つことにした。 とはいえ詰まれたチョコレートを見ると、来た目的がかすんでしまう。 ここで一個増えてもそれは単なるノルマの増加になるわけだし。 さて渡すかな帰るかな、なんて、待合のソファに座って悩んでいる内に緑さんは帰ってきてしまった。 扉を抜けてただいまを言って、ソファの前のローテーブルに荷物を置く。 チョコの振り分けをする二人に声をかけて、――かけるまで、私に気がつかなかった。 「先生、浜松さん来てますよ」 「えっ?」 振り向く。 「あっ、あー……」 「こんばんは」 三秒くらいの間が空いて、それから、 「えっとごめんね。あれ、なんで気付かなかったんだろ。こんばんは」 「いいえ、いいんですよ」 気まずそうに頬をかいて、緑さんは空笑いした。 それから、すぐに視線を外した。 近頃、というか、いつからかというのは、ずいぶんはっきりしているのだけれど、緑さんは笑いながら微妙に目をそらすようになった。本人に自覚はなさそうだし、常にそらしたままというわけでもないのだけれど、それでもやっぱり目が逃げている。 こうなる度に私は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。そしてもう一つ思うことがあるのだけど、こちらはまあ、少し場違いな感じなので秘密にしておく。 買い物の荷物の中から新しい缶を出して、緑さんは紅茶を入れて出してくれた。チョコレートの山を分け終えた二人も並んで座る。なんでもないようなこと、例えば自分で髪をセットするやり方とか、そんな話をしばらくしてから、緑さんが訊いてきた。 「そういえば、今日は何の用?」 「今日、バレンタインデーやないですか。先日のお礼もあるし、ケーキ持ってきたんですけども……食べれますか?」 「あ、本当に? いいよいいよ、うん、全然大丈夫」 「無理せんでええですよ。チョコ食べ過ぎるんは鼻血出たりするし」 「あは、一日で全部食べるわけじゃないから平気っちゃ」 ね、と緑さんが同意を求めるように見回すと、カップを口にあてている白雪ちゃんも、チョコの包みをひっくりかえして賞味期限を確かめている紅梅くんも、そろってうなずいた。 このまま紅茶だけ飲んで帰るのも情けないと思っていたし、お言葉に甘えてチョコケーキを取り出して置いた。パウンドケーキなら二切れで十分一人分になる。特に凝ったことはしていないけれど、リボンの色だけそれぞれ変えて巻いておいた。 それぞれの方向から伸びてきた手を見送って、ああやっと予定していた分は配り終えたことになる。ちょっとした達成感を感じた。 「……先生」 「ん? ああ、はいはい。浜ちゃん、今食べてもいいかな、これ」 「あ、どうぞ」 私が答えをきいて、紅梅くんがあっという間にリボンを解いてしまった。さっきの呼びかけは先生がいいって言うのを待ってたわけだ。可愛い。 「おいしい?」 「うん」 「浜松さん、ありがとう」 「いいえ、どういたしまして」 二人の表情に満足しながら、私は緑さんに視線を移す。まだケーキに手はつけてなかった。 不意打ちだったようで、一瞬だけ困ったような顔をした。それから目線をケーキに移して、戻して、戻す途中で話題を見つけたらしかった。 私の首にかかった、金のロケットは先日貰ったものだった。 「それ、つけてくれてるんやね」 「ええ。ほんまに頂いてよかったんですか」 「うん、元々……や、その服によく似合ってるでしょ?」 確かによく似合っている。鏡で見たときに違和感があるような、ないような、不思議な感覚になって、それからやっぱりセンスが違うなあと妙に感心した。他人事のように。 緑さんは手の中のケーキを見ながら弄んでいる。しばらくしてから零すように言った。 「少しは気に入ってもらえてるのかな、それは」 「はい、もちろん」 正直な気持ちだ。可愛いものはとても好き。 答えを聞くと、緑さんは顔をあげて、それはよかった、と笑った。 少し大きな声で、少し早口になって続ける。 「それはさあ、ロケットになってるでしょ。好きな人の写真とか入れたらいいよ」 「好きな人」 少し、 「そう、浜ちゃんも誰かに、本命チョコとか、渡したっちゃろ」 顔が引きつる。 喉の奥から声が出そうになる。抑える。笑ってしまいそうだ。見えない位置で足をつねった。――少し落ち着く。 「作ってないですよ」 嘘をついた。 緑さんが少し間を空ける。驚いている? のかな? よくわからない。 「そうなん?」 「ええ。作ってないです」 嘘です作りました。ああでも今も持っています。なぜってそんなのは決まっていることで、渡せないからです。そもそも渡す相手もいない、そう、そういうことでいいのです。 いない相手には渡せない。だから私はまだ持っている。 「ふうん……」 そして会話は一度とぎれた。無意味に笑いあっていた私たちの間に紅梅くんの声が入ってくる。 「なあ、浜」 「『ねえちゃん』」 「……浜ねえちゃん。これ、まだあんの?」 空になった包みをひらひら振りながら、視線は私――の持っている紙袋に向けている。 「あるけど、他にもチョコあるんに、食べられへんでしょ」 「大丈夫だからさ、あるならくれよ」 考えながら、緑さんをちょっと見ると、任せるよ、といった風に笑っていた。 仕方ないなあ。 膝の上で紙袋を開いて、手を入れてケーキを探す。 手が紙箱に当たる。必要もないはずなのに、気付かないふりをした。 目当てのものを見つけて、引き出した。 「はい、どう」 待ちきれない風で、紅梅くんが横に立って、覗き込んでいる。 「――ぞ」 とっさに紙袋を抱き潰した。ああ、なんだかひやっとした。 紅梅くんはただお礼だけ言って座った。またすぐに包みを開けるのを、白雪ちゃんがじっと見ている。 「白雪ちゃんにも、もう一つあげよか?」 「あっ、ううん、いいです。ありがとうございます」 「そう? 遠慮せんでもええけど」 少しためらった白雪ちゃんの様子に、紅梅くんが小さく――でもはっきりと呟いた。 「遠慮しないと、太るんだよな」 「あうっ、やっ、ち、ちがっ! ちがうもん!」 「ああー、それは困るねぇ」 「緑さんまで!」 「え、今の、悪いこと言ったつもりないのにー」 顔を赤くして慌てる白雪ちゃんが可愛くて、おかしくて、思わず笑ってしまった。 「あんまり女の子が気にするようなこと言うたら、だめですよぉ」 「あは、そうっちゃねえ。うんほんとに……ごめんね白雪」 「え? は、はい」 白雪ちゃんは少し戸惑ったように見えた。緑さんの謝り方が、唐突にしてはどことなく重かったからかもしれない。もっともそれも私の気のせいかもしれないけれども。 それにしたって謝るなら紅梅くんの方だと思うけども、どうだろう。 笑って喉が渇いたので、紅茶のカップを手にとった。残りも少なくて、冷めている。 もっとも乾いた喉には冷たい方がありがたかった。 緑さんに二杯目を勧められたけども、断った。今日はもう帰ろう。 外に出ると、もう本当に夜で暗かった。それでも、外も中もそれほど温度が変わらないようになってきている。短い冬だったなあと思いながら、帰るための呪文を唱えようとしたとき、後ろから声をかけられた。 緑さんだ。 お店の中からの光で、逆光になって、よく見えない。 「もしもの話っちゃけど」 「はい」 「もし浜ちゃんが、何か俺に――」 途切れる。なぜだろう。少し恐がってる? 仮定の話。そうもしもこの人が、私が思ったことがあるように、似ているのだとしたら。 嫌なことを忘れたいと思いがちなら、すぐに目を逸らしてしまうなら。 「言いたいこととか、ない?」 今は、少し頑張ってるんだろう。素晴らしいことだ、とても。 「緑さん」 「うん」 「うち、緑さんのこと好きですよ」 この人は私に似ている、かもしれない。 もっと話してみたいことがある。どうかな、どうなるだろう。 こっちには逆光で、向こうにすれば順光だ。私は今どんな顔をしているだろう。 「/home」 ――帰ってから、自分の言ったことを思い返してみると、恥ずかしいことばかり。 でも、私だけじゃない。 多分そうだと思う。 07/02/14 St. Valentine's Day!!! |