かえりば 陽の照る季節になった。 本来日光を嫌う性質なので、あまり外には出ない。 かびくさい、陽の当たらない部屋にとぐろを巻いて、日中はただうだって過ごしているのが殆どである。 日が暮れたらようやく外へ出る。夜の顔と昼の顔を持つのはどんな場所でも同じだが、この界隈は特にそうだ。昼と夜では辺りに渡る声が違う。 そして、おんなの匂いが強い。 化粧の匂いに、香の匂い。酒、汗。いろいろ混ざるが、そうして混ざったものとはまた別に、おんなに特有の、おんなの匂いというものがある。 嫌いではない。おんなは好きだ。 道を往くおんな連れの男だか、男連れのおんなだか、もつれて歩いている者々に関わらないように、隅の方を静かに歩いた。背に負う傘の柄にかけた大徳利が少しばかり重い。 知り合いのところに押しかけるための手土産だが、果たして。 「酒はありがたいんスけどねえ」 目の前の蛙面が、人好きのする笑いを見せる。もやい杭の上に腰掛けて、片手に下げたランプをぶらぶらと揺らせている。そうしておもむろにそれを上げた。 「でも仕事中ッスから」 これからまた船が来るのだと言う。珍しいことだ。 「たまに来るときはまとめて来やがるな、客ってのは」 「その方が、僕としては楽でいいッスよ。毎日来られちゃ、見れるものも見れないッス、落ち着かなくて」 「なんだって?」 「テレビの話」 光が今度は左に大きく動く。その示した先には蛙の寝床がある。 寝床と言っていいのだろうか、確か六畳かそこらの部屋には、この島ではそうそう見かけない電子機器の類が雑然と詰め込まれていたはずだ。 まあ、一畳くらいの隙はあった気がする。 「仕事ってなァ、どんくらいで終わるかね。次の船で最後かい?」 「予定は未定ッスよ。でも、さああと一時間もないかなあ」 一時間なら待つと言った。どうせ暇な身なのだ――と付け加えたら、蛙の奴はいいご身分でと笑いやがった。腹は立ったがまあうまい突っぱね方も思いつかないので放っておく。にやにやというかけらけらというか、声も出さないのにけらけら笑っている。いや、けろけろか。 さてその時だ。 ぶあんとうねるような音が鳴り響いた。風を巻くような音である。 「ややあ」 蛙と二人、同じ一点を見つめた。騒ぎの中心はすぐわかる、いくつかの光――空を飛んでどこかの島か、あるいはあの洞穴のような暗い溜まり場からやってきた――がそこへ落ちるからだ。 「いやだなあ。誰だい、ほうっときゃいいのにさ、わざわざ呼んで」 蛙の独り言が背中側から聞こえる。不満が思わず零れたか、どうも素の口調が出ているらしい。 また一つ光が、ぶあんと飛んできて落ちた。 「――銀二サン、今何人目か、わかるッスか」 「さあ」 「ああ、いやだいやだ……」 蛙は渋々立ち上がると、のろのろと寝床へ向かった。帳簿付けをするのだろう。 「今夜の客がどいつか賭けねえか」 冗談で言ったら、 「ローズウッド嬢に百」 冗談で返してきた。 どうにも、一人か二人かやられてしまったらしいと知ったのは次の日の朝だった。 暇に飽かして人の家に転がり込んできた小娘が、土産代わりにした話である。 「そりゃご愁傷様だなあ」 「ウン、アタシも詳しい話は知らないけどさ」 さあでも、多勢に無勢っていうより多勢なのに無勢って感じだったらしいヨ。 他の島から来た人ばっかりで、うちの島じゃ誰も手出さなかったけどね、店の前で乱闘されて、損害もちょっとは出てるらしいヨ。 よく喋るのは子供だからか、おんなだからか、それとも両方なのか。適当に相槌をうちながら、適当なところで話を切った。 「そうかい、そうかい。そんじゃお兄さんは今からちょっくら寝るからよ……」 「えーっ、そんなもったいない。今日もいい天気だぜ、外でなよ」 「あと二、三ヶ月したらでるさ」 「豆腐になっちまうよ」 「なんねえよ」 口を曲げた小娘がすねを蹴ってくる。その足を引っ込めて寝転がろうとしたとき、遠くで鐘が鳴るのが聞こえた。 それも複数で打ち鳴らしているらしい。残響と新たな音が絡み合って空気を揺らしつづけている。 「なんだ?」 「ああ、そうだきっとかえりばだねえ」 そばの小娘が一人うなずいた。何だって? 「かえりば」 島の北側の、小さな浜がそうだと言う。 「そこからね、島に来て亡くなったひとの遺品を流すんだよ。骨も残ってたら拾って一緒にね。それが海を通ってさ、その人の島に帰るんだよ」 「したら墓が立つのか」 「そうだよ」 さっきの鐘はその葬列の始めに鳴らすものらしい。初めて聞いた話、行事に、この島に留まるようになってからそれほど経っていなかったことを、改めて思い出した。 「気になるなら見に行ってみるかい?」 黄色いゴーグルの向こうから、同じに黄色い目を光らせて、小娘が声をかけてくる。その顔と、少し開けた引き戸の隙間から入ってくる日光を比べて、少しばかり考えはした。が、結局、不精を装って立ち上がった。 少しほこりのつもった文机と酒瓶に見送られながら、ともすればこちらのことなぞ忘れて駆けていきそうな背中を追いかける。 昼の通りは、それなりに騒がしい。 夜のざわつきとはまた違い、明るい物売りの声や子供の笑い声がする。誰もが陽の下で、汗を垂らしながら精一杯声を張る。 目の前の小娘はどちらかというとそちら側だ。夜より昼の方が似合う。 薄緑の髪が歩くのに合わせて揺れるのを見ながら歩いた。 うかつに道など見ると、照り返しが気分を悪くさせるのだ。 陽は嫌いではない。ただ、この島は少し眩しすぎる。 やはり自分はこの土地の者ではないのだ。 傘の影は陽の眩しさに比例して黒くなる。 真っ黒になる。 十数分ばかり歩いて、件のかえりばとやらに着いて、拍子抜けした。 遺品を送るだの言うのだから、もう少し密やかな雰囲気を期待していたのだが、なんのことはない、ただの小さな浜だ。 おまけにこの場所は前に来たことがある。よりにもよって目の前の小娘が海に泳ぎに行くからと、ひっぱってきたのがここだった。 「一ツ橋ィ」 今日初めてその名前を呼んだ。 「お前、変な嘘つくんじゃねえよ。ここァただの浜だろ。ちっと前に来たじゃねえか」 「嘘なんかついてないやい。ほら見てみなよ。みんないるだろ」 示された先では、確かに何人かの男たちが寄り集まっている。 遠目からではよくわからないが、大きな樽のようなものを転がしているようだった。 あの中に入っているのか。 「近くに行ったらにらまれるかねェ」 「そんなことはないよ」 小娘がちらりとこちらを見上げてくる。付け足した。 「――アタシはね」 そうかい、と短く返し、その頭を軽く叩いてやる。こいつが気にする義理はないのだ。 誰かが花を呼んで樽に飾っていた。魔法でできた花は、飾り物にするにはそれらしい。 そうする内に、樽はすっかり海に押し出されたようだった。男たちが離れる。 また、鐘が鳴った。 「お前も鳴らしてくるか」 「アタシはいいよ」 しばらく黙ってその音を聞いていたが、鳴らし終えた者からこちらへ歩いてくるので、知らぬ顔をして浜に下りることにする。 すれ違う男ごとに一言ばかり挨拶を交わした。よう、先生。いい天気だねえ。暑くて参っちまうよ。じゃあな橋ちゃん。 特別な素振りは何もない。誰も気に留めない。 その程度には溶けこんでいるはずだった。 「かえりばは、まあ、普通の浜だよ」 挨拶の合間に小娘が言った。 「でも八月の真中と十月の終わりは泳いじゃいけないんだよ」 季節はもう八月になろうとしている。 鐘の音が消えた浜はただ白い。人の影も風もなく、暗青色の海がよこす波が打っては戻る。打っては戻り、樽を運んでいく。 飾られた花が少しずつ落ちて海の上に残っていた。それらも何故か打ち上げられることはなく、遠くへと運ばれていくようだった。 波が日光を反射する。 眩しい。 樽は運ばれていく。帰るのだ。 どこで死のうと、やがては帰るのだ、生まれた場所へ。 「親は選べねえってよく言うよな、一ツ橋」 唐突に声をかけてみる。聞いているだろうか。そうでなくとも、別にいい。 返事はあったような気がした。 「おれたちは生まれた場所に帰るほかないのかね。死に場所は選べても眠る場所は選べないんだ。墓は立っちまう」 どれだけその場所が、本人にとって不快であったとしても。二度と帰りたくない場所であったとしても。帰る資格のない場所であったとしても。 「となると、生き続けるしかねえんだろうな」 何のために、と声がする。 小娘のものに聞こえるが、自分の身の内から生じた声だったかもしれない。 「逃げ続けるためにさ」 無駄であることを承知で、一つ重ねて頼むことにした。 「おれがここで死んでもよ、流したりしないで埋めちまってくれよ」 「場所なんてどこでもいいんだ。面倒ならうっちゃってもいい」 「どっかに送り返そうなんざ、思わねえでくれよ」 「帰りたかあねえんだ」 それきり無言になる。 ただこの島で死んだ誰かが帰っていくのを見ていた。 後で聞いた話、かえりばは送る場でも、迎える場でもあるらしい。 島の人間が他所で死んでもきっと帰ってくるのだと。 死んだ体のかえらないことはあるかと訊いたら、不思議とないと言う。 2006/11/23 |