短景タイトロープ


よ びかける声は誰の声?
ろ  ープを一つ張りつめて、広い部屋。
し    ずかですか? そこは、しずかですか?
く     らいです――何故?――理由が――必要なんですか。
お願いします。誰の声? 誰の声……?

(話を始めます。)(手短に。)

 そのタイトロープの上に一人置いて、下に一人置いて、部屋はそればかりでした。他に何があるのかというと――本であり壁であり照明であり砂時計であり空気でありトランプであり床でありくもの巣であり人形であり手紙であり、そう、色々あるのですが、タイトロープと一人と一人の他に何が要るのかというと、何も要らないのです。少なくとも、今は。
 一人と一人、お互いに、知らないもの同士でした。それでも道化師は(ロープの上にいる方の一人です)、少女(ロープの下にいる方の一人でした)につとめて親切に振る舞うつもりでした。
 知らないもの同士、という同類項であるだけがその理由でなく、道化師は少女の服装に親近感を覚えたのです。道化師は上から、といっても彼(あるいは彼女)の上からは他の人にとっては下からですが、少女を見ました。
 一番遠い足先はぺたりと平たく・体に張り付くようなタイツは黄色の水玉模様・腰の横に添った手のひらはぺたりと平たく・体に張り付くようなタイツは黄色の水玉模様・首のところで白い襟がとびちってカーブを描き・寒々しい白さの顎の下に少し開いたままの口。
 その上に鼻が乗り、水色の瞳は道化師を見ています。額にかかった金髪は愉快に跳ね、一番下に(上に)、カチューシャから飛び降りる星が線を引いていました。
 道化師は瞳よりも星を見ながら挨拶をするのです。丁寧に腰を曲げて。
「御機嫌よう、お嬢さん」
 不思議な話といえばそうなのですが、彼にとってはごく自然なその動きも、お客達にとっては感嘆の声を上げるものの一つでした。
 タイトロープから逆さまに吊り下がっているものが腰を曲げて挨拶をすること、果たしてそれほどにおかしいことなのでしょうか? いつも道化師の元に、一人一人の口から洩れて波のように押し寄せるため息は、その時は聞こえませんでした。
 少女は道化師の真似をしてお辞儀を返し、黄色く笑ったのです。少女の口は話すためについているのではないのでしょうか。口を開く代わりに、少女は手のひらをくるくると動かしました。
(――始める――私――でした)
 そうしてもう一度お辞儀をします。それほど難しくはありませんでした。道化師は返します。
「はじめまして」
(そう――正しい――)
 気をよくしたのか、少女はまたくるくるくると手を動かしていきます。たくさん繰り返しましたが、ひとつひとつ手の動きを追うと、意味はわかるようでした。
(私は――乗りたいと――思います)
「何にでしょう?」
(――そのロープ――張りつめた――)
 そうして少女は飛びました。黄色く動線を描いて、軌道は正確。その片足はやすやすとタイトロープのその細かなけばの上に触れ、とまるのです。
 道化師は驚いた様子もなく、笑いました。言いました。
「お嬢さん不思議と軽い。何故です、ロープが揺れないのは……」
 少女は黄色く笑うだけでした。
 そうしてタイトロープの上を歩き・渡り・滑り行きます。不思議なことにはロープは揺れる気配もなく……風の方がよほどロープを躍らせていました。
 道化師は目で追います。やがて近づいてくる。
 そうして真上をすり抜けていく。
 一瞬向こうが透けた気が彼にさえしました。ああでも相変わらず笑うのです。何も意に介さない風でした。
 ロープの端までは行かず――少女はくるりと片足で回ってみせました。二回。三回。足先が描く円は高さに合わせて円周を変え、妙に歪んだ線を引くのです。
「林檎ですね」
 道化師に言い当てられて少女は足を止めました。驚いた顔と、不服そうな顔を順番に見せてから、足を滑らせた真似をして、ロープの上に座りました。
 道化師に向かって少女は腕を振るいます。
(なぜ――可能ですか――知ること)
「何故でしょう。それは私にもわからないのです。不思議なことでしょう?」
 少女は道化師の言葉に首をかしげました。にっこりと笑っている顔にしかめた眉を投げつけて腕を組み、考えるポーズをします。
 道化師は揺れる足先を見ていました。足先は揺れてもやはりロープは揺れないのです。
「そう言えば御挨拶のほかは何もお話していなかったですね」
 道化師は言いましたが、それなのに、
「私は見たとおりの者です」
 としか言いませんでした。少女の方もそれで構わないようでした。少女の手は大きく円を描きます。そうして道化師はようやく少女の口が(笑う以外の)動きを見せるのを見ました。それでもその声はないのです。
 少女は一つ一つ丁寧に形作りました。
(A-A-O-U)
 最初のAの前に一度口を閉じます。破裂音のB、あるいはP。
「……パラソル」
(違う――音・感じ・感覚――)
「ぱらそる?」
(そう――)
 少女は黄色く笑いました。
「なるほど――はい、わかりました」
 道化師も答えて笑います。確かに少女はぱらそるという顔をしていました。ぐるぐると大きな青い目が空の色をしていました。
 少女は改めて示しました。私はぱらそるである、と。
(私は――道化――私は――可能である)
 胸を張り、その一方であやしく笑いながら少女は道化師に語るのでした。その目に不思議と踊るような光が見えています。
(――全て)
 道化師はただ頷きました。
 そのときです。
 少女の体がぐらりと揺らぎました。
「あ」
 道化師は咄嗟に片腕と片腕でそれぞれロープを掴み、世界と逆さまにかがみこむような姿勢でさっと体を滑らせました。少女の体が滑り落ちて、黄色い欠片に砕けないようにと、捕まえようと思ったのです。
 けれどもそうなることはありませんでした。少女の体は――不思議なことに――ロープに添って『くるりとまわった』だけでした。
(私は――可能である――全て)
 足ははるかに下の天井に向けて揺れ、頭ははるかに上の床に向かって揺れました。ただ金色の髪の毛だけが本当の世界のルールに従って、下に向かって垂れていました。
 道化師は一つ奇妙なものを見たのです。
 それは少女の黄色い笑みではなく、タイトロープに足を絡ませずに天地を返したその姿でもありませんでした。
 道化師は普段よりも落ち着いた、普段よりも楽しそうな声で言いました。
「久しぶりに見ました」
 黄色い笑顔を形作る、赤い線、青い円、その並び。
「目の下に口があるというのは、なるほど、こういう絵でしたね」
 道化師はまれに上と下とを正しく治めることがありましたが、普段はやはりぐるりと逆の世界にいたのです。その世界では誰もの顔が口の下に目があって、首の上に体があったものですから、道化師にもそれは当たり前のことだったのです。
 何やら静かな物思いにふけりかけていた道化師は、その目先にいた少女の顔が、不機嫌に歪んでいることに気付いて首を傾げました。
「どうしました?」
 少女は肩をおおげさにすくめて、どうもこうもない、と言った風に手を動かしました。
(私は――望む――見る――驚く――あなた)
「ああ、」
 道化師は素直に頭を上げました。
「それは申し訳ない。けれど道化師は人を、驚かせる側であるものですから、ちょっとやそっとや、とてもや大変くらいのことでは驚かないものです」
(であるなら――驚く――何?)
「さて、何でしょうか。ここのところ驚いた覚えがないものですから、自分でもわかりません」
(ずるい――)
「それはずいぶんな言われ様。私も驚きたくなくて驚いていないのではないのですよ」
 少女の拗ね顔がいっそう膨らんだのを見て、道化師は笑って言いました。
「どうぞ笑ってください。道化師は人を笑わせる側でもありますから、今の私は目の前にいる貴方に笑っていてほしいのです。――貴方の笑顔を見ることが何よりの幸せ」
 道化師の笑い顔を見て、少女の両目は一瞬釣られ笑いを浮かべました。けれどそれをすぐに打ち消して、面白くもないのに笑えるわけがない、とそっぽを向くのです。
 道化師はそれも見越していたものですから、なんということはなくすました顔をしました。
「さあ、では笑うまでお付き合い願いましょう。お帰りの際の鍵になるのはただ笑顔ばかりです。道化を見るというのはそういうことです」
(私も――道化――同じ)
「では、ご一緒にどうぞ。空中ブランコでも玉乗りでも、得意なものをお選びなさい」
 少女は一つ文句でも言いたかったようですが、あんまり道化師がするするとものを決めていってしまうので、仕方なく、
(――空中ブランコ)
 と示しました。けれどもその口元が既にうずうずと歪んでいましたから、仕方ないのを装ってただ彼女もブランコが好きなだけだったのでしょう。
 道化師はそれにも気付きましたが、さすがに今度は言いませんでした。
(――驚く――あなた――次は――)
「ああ、楽しみにしています」
 言わない代わりにふふふと珍しく、声の出る笑い方をして首を傾げたのでした。

(さて、)

ど    うなったのかを伝えずに、お話はここで終わりです。
う   ろんに流れる時はまだ見ぬ先へすら続くのです。
も  しかの日ならば、いずれまた。
ありがとうございました。

2007/6/7


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