Hear the heat-heart


 小さなかたつむりが、扉をそっと閉めた。

「――インブリウムさまはお休みになりまして?」
「ああ、うん、すぐ寝そうだよ。かなりぼんやりしてたみたいだしさ」
「早く治られるとようございますね」

 ムシクイ女は扉の向こうに気を使ってか、珍しく言葉が少ない。

「しかしね、」
「はい?」
「先生の部屋で休みたがって、僕さえそばで看病させやしないし――うつらないって言ってるのにさ――おまけにあのぬいぐるみまで抱えちゃって、なんだってのかね」
「ナジムは一緒でしょう」

 たった今かたつむりが閉めた扉の向こうでは、緑の火が心配そうに燃えているはずだった。

「ナジムはストーブだろ。何もできないじゃないか。いや、そういうことじゃないんだよ、こう――」
「なんです」
「僕らじゃまだ『先生』に張り合えないってことか? 彼はもういないし、僕らはずっと一緒だったし、事実、彼女の保護者は僕だ。そりゃもう絶対にさ」
「はあ、そうでございますねえ」
「君ならわかるよ。君は女で先生は男だ。父親だろうさ。でも僕は同じ男だ、父親じゃなく兄だとしたって――いない相手に勝てないもんなのか?」
「そういうこともございますよ」

 ムシクイ女はかたつむりを諭す口調で繰り返す。ございます。

「僕に何が足りないってんだ」
「おそらくですが……」

 ムシクイ女はかがみながら答えた。

「手ではないかと」
「手だって?」
「ええ」

 かたつむりを口にくわえ、自分の上に乗せる。口が開いて、それから言った。

「手です。あなたの手は、先生どころか、インブリウムさまよりも、はるかにはるかに小さいのですもの」
「そりゃ……まあね」
「インブリウムさまはおっしゃってましたわ。昔風邪をひいたり、寝付けないかったりしたときは、先生の部屋で、先生のベッドで寝ていた、と。先生はインブリウムさまが眠るまでは、ずっと起きてらっしゃって、インブリウムさまの頭を大きな手で撫でてらしたそうですよ」
「僕の手じゃ小さすぎるわけだ」
「ええ。それどころか、ここにいる者は皆、インブリウムさまの頭を撫でることはできませんわ」
「ヒパティアもシュレディンガーも小さいからね。ケトレー、君は」

 かたつむりはムシクイ女の形をたどる。

「ご覧の通りですわ」

 ムシクイ女はつるりとした肩をすくめてみせた。




「あのこは我が侭なんだよ」

 かたつむりが吐き捨てるように言う。

「いない相手に嫉妬してもはじまりませんわ、ディイさま。わたくし共はわたくし共にできることをいたしましょう」

 ムシクイ女に拗ねた言葉を見抜かれて、かたつむりは鼻をならした。

2007/3/27
ディイ ケトレー




Dear Gear


 その日も慌しく金属音がしていた。
 硬さよりも伸びや柔らかさに重きを置いた金属が、無骨に組み合わさって完成された、丸い形が、部屋の真中に据えられている。その小さな頭部と、丸い関節や薄い手足にまで、まんべんなく蔦と葉がからみついていた。
 前時代の遺物――という言葉が似合うオブジェに、インブリウムはそっと近づく。横から回り込んでいくと、せいぜいおとなの肩幅くらいの穴がぼかりと開いているのが見えた。なかば無理やりにこじあけられたフタには、蔦が無残にひきちぎられてしがみついている。これを見るたび、まるで何かの調和を乱してしまったような罪悪感を、彼女は覚えるのだ。
 先に掃除をしてしまった方がいいかもしれない、と考えながら、彼女は暗がりの奥に声をかけた。
「調子はどうだね、整備士くん」
 陰になった穴の中で、さらに小さな影が動くのが見える。オレンジ色の光と一緒に、ちらちらと揺れて、具体的にどういう動きだと表せばいいのか、彼女にはわからない。
 灯りは中にもつけてあるが、それはあくまで『彼』のためのものであり、インブリウムにとっては小さすぎるのだ。
 少しばかり時間をかけて、影は陰から這い出てきた。
 インブリウムを見上げ、笑う。
「やあ、インブリ。まずまずだよ」
 自分の身の丈ほどもある工具を抱えて、額に汗を光らせるディイの姿は、いつも以上に少年のようだった。
「ずいぶん時間が経ってて、草や土が入り込んでるのに、どの部品もおかしくなってやしない。完璧だね」
 相手に聞かせるというよりは、独り言を呟くような調子で彼は続ける。
 金属の表面を撫でる手には不思議と親しみが込められているように見えた。
「これを作ったひとは、多分こいつを永久に動く機械にするつもりだったんだろうな……」
「ふむ。ずいぶん、楽しそうだな」
「まあね。ほら、ロボットってロマンだからさ」
「ロマン?」
 インブリウムが首を傾げたのを見ると、彼はにやりと笑った。
 それは、例えるならば『女の子を入れない秘密基地』を作ってる少年の顔――だったのだが、インブリウムはそういったものを知らない。ただ妙に納得がいかない気分になっただけである。
「で、動かせるのか」
「あとでのお楽しみだね、それは」
 にやにや笑いを一つおまけして、ディイはまた陰の中へ戻っていった。
 慌しい金属音がまた響き始め、インブリウムはオブジェに背を向けた。
 離れる前に、一度だけ振り返ってその顔を見る。
 金属片の積み重ねで作られた顔には、やはり表情はなかった。
(それもそうか、)
 インブリウムは思う。
(まだ眠っているのだ)
 再び背を向けて、次は振り返らなかった。

2007/5/4
インブリウム ディイ




Captive to Capsule


 濃いブルーのフットライトだけが辺りをはかる目印でした。ぐるりとその部屋は丸く、一定の間隔でもって壁に設置されているフットライトの光は、見た目の距離を変えながらも一つの線を描いていきます。
 一箇所だけ途切れるところがあって、それは私の真正面で、つまりはそこに彼女がいるのです。
 私は音を立てないようにと部屋に入り、片手で壁を探りました。記憶では確かこの辺りにスイッチがあったのです。手に固いものが当たります。これだ、と思って私はそれを押し込みました。
 部屋にはあいかわらずフットライトしかありません。しかし、私の目には眩しい――と、いうほどには強くない光が届いてきました。
 光は円筒形をしていて、常に揺らいでいます。薄水色の世界を完成させて存在しています。私よりもまだ随分大きなその光のカプセルは、たっぷりの水で満ちていて、彼女を包み、浮かばせているのでした。
 カプセルの発光の中にあって、彼女は影にもならず、むしろ彼女自身が光っているような印象さえ与えてくるのです。おそらく彼女は不透明と透明の境目に体の色を持っているのでしょう。
 光はまた彼女の目覚ましでもありました。
 その目はぱちりと開かれて、カプセルの光よりも部屋のフットライトよりも、空よりも海よりもなおいっそうに青い青として、姿を表したのです。
 半透明な彼女の存在の中で、目だけが不透明でした。
 この世のどこかに巨大な『青』というものが存在していて、その中核をスプーンでくりぬいて、そのままはめ込んだような青なのです。
 彼女は顔だけをこちらに向けます。大きなカプセルですが動き回るほどの余裕はないのです。
「……なんだ? 今日の面会時間はもう終わりだぞ」
 水とガラスと、その次にようやく空気を通して私に伝わってくる声は、とてもそうとは思えない明朗さでした。
 私が非礼を詫びて、訪問の意図を告げると彼女はつまらなそうに首を振ります。
「そんな理由で来たのか。まったく、物珍しがられる方の気持ちにもなってみろ。ああ、みなまで言うな、わかっている。ただ少し疲れているのだ。この体は常に水分を使い、水分を要求する。『湿りだめ』をしていなければ、とても」
 彼女が首を動かすたびに、白い髪が水の中で揺れて光の繊維のように見えました。右へ左へと揺れて、時折にかすかに光を反射させてきらめくのです。夢中になって見つめていると、彼女が急に動いて背を向けました。
「物珍しがるなと言っている。そう見るな、恥じらいくらい感じるぞ、私でも。さあ、気が済んだなら帰ってくれ。また明日ならいくらでも来ていいから」
 本当は私は、白い背中にやはり白い、今にもとけそうなヒレが揺らめいているのを、出来うる限り見ていたかったのですが、彼女の機嫌を損ねてはこの先の機会すら失われてしまうとわかっていたので、大人しくその場を去ることにしました。
 入口辺りまで戻ったとき、どうやって察知したのか彼女がすかさず声を投げてきました。
「ライトを消すのを忘れないでくれよ。では、また」
 忘れるわけがないのです。
 ライトを消すと、世界はまたフットライトの青が点在するだけの空間になります。
 宇宙というのは果たして生まれる前はこのようなものではなかったのでしょうか?
 ごぽり、と水音が聞こえました。
 彼女が今あの水の中に闇の中にたゆたっているのだと考えると、何やらこのまま背中から飲み込まれそうな、飲み込まれてもいいと思ってしまうような、不思議な感覚が背骨をつたっていきました。

2007/5/11
インブリウム(オサナヒグラシ)


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